昭和四十三年九月七日 朝の御理解


X御理解第九十三節 「氏子は神の守りをしている考を神と心得て参詣する守りが留守なら、参詣した氏子は今日は留守じゃと言おうが、神の前を開けておくことは出来ぬ。万事に行き届いた。信心をせよ。常、平生にかみしもを来ておれ。人々は上下があるが、神々は上下はない。人間は皆同じように神の氏子じゃによって見下したり汚がったりしてはならぬぞ。

正しく取次者道の教師に対してくださった御理解と思われますね。けれどもここに道の教師じゃら信者じゃからというて信心に違いがあるはずがない。信者でも先生以上の人もおる。ですから、ああいう信心をしても、先生で*なからなきゃ出来るこっちゃない。*ちゅう事はない。金光大神のお取次を頂いておかげを頂いていくという事においては、みんな同じである。大地の親神様の御*礼に浴するということは信者も教師も同じである。人間だれしも同じである。ですから、これは金光様の先生の信心、これは信者の信心というなことはあってはならんと私は思うね。問題は、取次のもの、取次されるもの、ここにもいえますように守をしておるものを神と心得て参詣するというところ、ね、守をする者を神と心得て参詣する。ですから、まず信者の皆さんがです。取次者を神と心得るところまで、信心を高めなければいけない。同時に、取次させて頂く者も皆から神と仰がれる位のところまで信心を進めておかなければならない。同じなんですね。どうも内の先生は金光大神として拝もうと思うけど拝めない。神と思うて拝もうと思うけど拝めない。そういう信者の声をたとえば、信徒、共励会の時、聞きますね。それは、あなた方が信心を高めていかんからなんです。信心自体が信心を高めていく、信心を頂いていくと例えば、よしここに誰が座っておっても神と仰がれるのである。神と頂けるのであるね。信心は神様を拝むことと思うておるけれども信心とは我と和賀心を拝めるようになる稽古であると言われる。自分で自分自身の心を拝めるようになる。そういう事になったらね、ここに誰が座っておっても拝める自分で自分の心を拝めるそうやから、ここに藁人形が座っておっても金光大神として仰げるのであり、いわゆるここではない、御*界ではない。みんなの氏子、人間全ての人達の上にもです。神の氏子としての頂き方が出来るようになる。一番最後の所に出て来る。人間は皆同じように神の氏子じゃから、見下したり、汚がったり、しちゃならんとおしゃるようにね、神の氏子としての見方が出来るようになる。神の氏子というのは神の子じゃから神様でしょ、ね。これは取次者、又は御*結界に座っておるものじゃなくてもみんなが神様に見えるようでないといかん。まあ、金光様の御信心とはそういう信心なんです。まず、この氏子は神の守りをしておるものを神と心得て参詣する、ね。神と心得て参詣でけるところまでおかげ頂かなきゃいかん、みんながまず、ね。同時になら、取次させて頂くものをみんなから神を仰げれるところまでおかげを受けなきゃあいけん。先日、三井教会の初代教会長荒巻三次郎先生の今度の35年の式年祭があります。それに何か記念品に何か色紙か何かを作りたい、短冊か作りたい、*というのでなかなかない。それを沢山の祝詞やら昔のを出しましてね、調べたんですけど、なかなか先生の実筆というものがないのです。祝詞を*しや親教会長先生がお祭りを使えておられたんでしょうね。ですから、皆難しい字を書いておられる。はあ、これは石橋先生が書いておられると見ると、誰かが代筆しておる。いや、これは石橋先生実筆ではないという。三次郎先生の実筆ではないのです。中に一冊手帳が出てきたのです。いや、これはまさしく先生の手控えだろうというのでみんな聞かせて頂いたのです。けれど、その中にね、こういう様な、まあ、教えを受けておられるのがひかえてあった。「手は手連れと言おうが、神は神ずれぞ」「手は手連れと言おうが神はかみずれぞ」これもまさしく取次者にくださったお教えでしょうね。まあ、言うなら、信者は信者ずれ、取次者は取次者ずれ、金光大神のお手代わりをするからにはやはり神様付き合いが出来るようにならにゃだめだ。私は正しくそうだと、思いますね。神様付き合いが出けんどってから人間付き合いどんしようってからおかげの頂けるはずがないですよね。言うなら、人から悪う言われても人から笑われても、ね、神様の仰せには、そむかれんという神様の仰せが分かる先生になれよと言うことなんですね。そこでそこんところを今日御理解から頂きますとです。これは必ずしもお道の教師だけはない。信心させて頂く者全ての者が、ここんところをいただかねばならんと言うふうに頂くならばです。信心させて頂く者がです。神連れにならにゃいかんちゅうこと、皆さん自身が神連れ、信心のある者、ない者の違いがはっきりせんや、いかんと言うこと、信心のない者は信心のないものずれ、信心のある者は、信心のあるものずれにならにゃいけんというところでも神と心得るところの信心、神様と心得られる信心、先生が皆から、神と仰がれるような先生にならにゃつまらん。同時に又信者も誰がここに座っておっても神様と仰げられるだけの信心をまず我と和賀心を拝められるような信心を頂かなければならんと言うのである。守りが留守なら参詣した氏子は今日留守じゃと言おうが、神の前をあけておく事はでけん。御結界をあけてはならん。まあ、そういうことでしょう。ここで私がまがりなりにもまあ、ここではそうですね。朝の4時から、夜の10時過ぎまで御結界をあけません。誰かが御用させてもらっておる。それもやはりお教えをまあ、本当にお教えに忠実になからにゃならんというところからそういう事になってきておるのです。教えられる事にそれは分からない。どういう事なのか分からない。ただここに座ってさえおるという事だけではないんだけれども、聞けぬとおっしゃるから聞けんだけの事。ところが、座っておれとおっしゃるから座っておりますが。欲しいものがなくなり、思うこともなくなり、というようにです。だんだん、ここがありがたいものになってきた。三代金光様がそうおっしゃっておられる。始めの間は泣く泣く座っておられた。有りがたいこともなからなけらばもったいないこともなかった。今から、生神様のように思われいわれなさった。三代様ですから、そうであった。けれども、親様が座っておけ、座っておけば楽とおっしゃったから、座っておった。私どもでもそうであった。教祖の神様が、このように教えておられるから、分からんのだけれども、座らせて頂いておったら、だんだんなるほどそれが本当だなあ、頂かなければ、ありがたくなれんのだなあということが分かってきた。だからここんところ、まさしく取次者に対するところのお言葉なんです。けれどもここんところは、取次者だけじゃない。皆さんだってとそういう皆さんが、御結界に座るわけにはいかんですからね。ちゃんと座っておるわけにいかん。たとえば、御用がありますからね。最近、全信奉者、全取次者という事を言われております。全信奉者が皆全取次と言われる。だから、何時、何処で、何をしておってもどこでもお取次がでけるような状態であれということなんです。最近は全信奉者の信心というものが大変こう高度な高められたものが要求される訳なんですね。全信奉者が全信者が全部取次者、そうですね。神は、神ずれということになってくるとやっぱりそういうことなんです、ね。私ども周辺にはどれほどの難儀な人があるか分からん。そこの難儀な人のやはり取次、助けられていくことのための奉仕が日々祈りと共になされていかなければならない。ここんところもだから、こりゃあ、お道の先生だけのものじゃないと万事に行き届いた信心をせよ、万事に行き届いた信心をしておらんとさあ、何時でも何処へでもお取次頂けんのです。常、平静に心に上下つけておれ、人々は上下があるが、神には上下がないぞ。ここんところは上下、ここでは信心の制度、私は言うておる。信心に制度を持て。おかげだけは、きちっとしたおかげを頂きたい。一分一厘間違いないおかげを受けたい。信心の方は*しざござね、信心の方も、いうならせめてきちっとした信心、朝の御祈念、5時にはお参りすると決めたら、本当に5時1分でもきらさんという信心が必要なんです。こうと決めたらこうと、きちっとここんところ、講じさせて頂くだけの信心の制度を持つ。ここは上下つけておけというのは、そういう意味。いうなら、紋付、袴を着けておけといったようなものじゃない。そうでもあろう、お道の教師は、こうやって羽織、袴を着けておりますから、これは確かにね、形の上でも、紋付、袴を着けておりますと心が自然ときちんとしてくる、ね。そうですよ。開襟シャツを着て御祈念する時ときちんと背広を着てきちんとしてネクタイでも締めて御神前に出ると気分が違うでしょうがね、いわゆる昔はね、*であった。*を着けて、そういうきちっとした信心をした。ですから、それは、形の上においても、やはり御神殿に向かうからには、きちっとしたやはり身なりというか服装なんか、心がけならんことが分かります。あぐらをかいて拝むよりもやはりきちっとした正座をしてお話を頂くにでもあぐらをかいて聞くよりもやはり足は痛くてもね、きちっと正座してお話を聞かして頂いたら、ありがたいようにです。*着けたような心持ちで信心させてもらう。それは、私はここんところ、信心に*着けたときちっといわゆる信心に制度を持てとそこから必ず、きちっとしたおかげをだんだん頂けて来るようになる。今日紋付、袴を着けて拝んだからもうおかげの方がきちっとなってくるね、神には、上下がない。ここでは、もうきちっとしたことはないね。神、神には上下がないとおっしゃることには、神様には、上も下もないということである。清い所も汚い所もおんなじだね。人間は例えば、お金を持っているかいないか、器量がよいか悪いかで上下をするんじゃない。地位とか名誉とかあればそれを人間では自分の目上の人として扱うけれども、神はそれがない。神様からご覧になれば、*一志同人なんだ。みんな同じなんだ。だから、私どもはここにそのお互いが神になる稽古をしておる。神と心得てお参りが出来るようになり、又神と仰がれるようなおかげを頂かしてもらうということは神になる稽古ですよね。ですから、神様の見方、神様がご覧になるならば、どういうようにご覧になるだろうか。あの人は器量が悪いから、お金がないからというて見下したりなさらないようにです。みんなが尊いものをみんなが神の氏子としての見方をさせて頂けるようになる。だから、見下したり、汚がったりしてはならん。汚がったり見下してはならないから見下したり、汚がったりしないはなくてね、もうそこに神様がご覧になる見方が出来るような信心になれということね、結局自分の心がいわば神心が強うなる。我と和賀心が拝めるようになると周囲全ての人が拝めるようになるということなんです。これはまあ、だいたいこの御理解の表面に出て来る所のいわゆる御理解。ここは必ずしも道の教師が頂かなならんという御理解じゃあない。これは全信奉者が今、私が申しましたような心がけで頂かなければならない。そこでね、この御理解の一番大事なところ、一番ポイントになるところは皆さん、ここに頂いて何処だと思うですか。ここんところが分からして頂ければ、いわばこの御理解のすべていわゆる神と思うて参ることも出りゃあ。神と拝めるようなことも出来る、神の前を開けようと思うても開けられん。ザーとした格好しようと思うてもやはり上下つけにゃおられん。とても人間を見下したりなんか、なおさらでけんね。もう、いれれんでもそうさせて頂かにゃおられない。神にはほんなら御理解の何処を頂いたらそういう事になってくるか。こうしなけりゃいけんぞ、神の前を開けちゃならんぞ、人を見下したりしたらいけんぞ。きちんとした信心をせにゃいかんぞといわれんでもきちんとせにゃおれん、見下したりせん、神の前を開けちゃおられんというようなおかげを頂くためには、皆さん何処をどう頂いたら、そういうことになると思いますか。又のお教えに「日に日に生きるが信心なり」とあります。日に日に生きるが信心なり。日に日に生きるということは、どういう事であろう。誰だって毎日生きていきよるね。おかげを頂いている限り今日もお生かしのおかげを頂いておる。お生かしのおかげを頂いておる。そして信心をしよるということが、日に日に生きるが信心ということではない。たとえて言うならば、ここにパイナップルならパイナップルがあるとしましょうか。パイナップルと言えば果物の点でも高級な果物をされてある。より高級な果物がここにあるとする。ところが、どういう高級であろうがです、どういう値段の高いものであろうがです。腐っておったら、値打がないです。見かけはちょろと変わらん。この頃もここで或は教会からお**お下がりを頂いた。それを切ったところが見かけは立派だが中は腐っておった。捨てる他仕方がなかった。見かけではわからん。あの風味といい、味わいといい、なんともいえん。風味、味わいというものが、中が腐っておったら、その風味もなからなければ味わいもない。いや、もう捨てるより他に手はないのです。この頃腐ったのが多なった。日に日に生きるが信心なり。いわゆる、日に日に生きるが信心が分からんからなんです。又のお教えに「信心しておれば、一年一年、ありがとうなってくる」とこう仰せられるが、信心の肝心、要の根ざしであるところの一年一年ありがとうなっていくというような信心を目指していないからなんだ。目指しはおかげばっかり。これも頂かならん。あれも頂かならんばっかり。ああしてください、こうしてくださいばっかり、ね。自分でも信心させて頂いておるが、はたしてどれだけありがとうなってきたか。分かることは分かってきた。毎日話を頂くから分かることは分かってきたけれど、はたして、内容にどれだけありがたいものが、頂けてきよるかと思うて見て、ありがとうなっていけようらんとするなら、信心のいわば、進み方が間違っておる。本当は、信心が進んでいきやあ。一年一年、細かにいうなら、一日一日ありがとうなっていかなきゃならんのだ。これはおかしいと気付かして頂いたら、それなら、一年一年ありがとうなっていく信心ばどういう信心をさせて頂いたらよいか。そこには、日に日に生きるが信心なりというような私は信心をさせて頂くところから一年一年ありがとうなってくる、というおかげをうけられる。一年一年ありがとうなっていくと言う信心、皆さんどうでしょう。もう10年、15年、信心しとるけれども、10年前は、はあ、おかげを頂きようた。やっぱりありがたかった。今日もこの頃おかげ頂けんようになった。あんまりありがとうなくなった。これはおかしいなあ。しんじんがありがたいのではなく、おかげがありがたかった、ね。目指しというか、ね。その目的を間違えるといわば、10年なら、10年たっておる間に大変な所に出てしまっておる。久留米駅に出ようとしておるのに、北の方に出てしもうておることになるのですよ。自分は、久留米、久留米と思っておっても反対の方へ行きよる分なら、反対の方しか行けれん。日に日に生きるが信心、私は思うです。昨日の私はもう今日の私じゃないということね。昨日の私はもう死んでおる。今日さらな、新たな私が生まれておる。ですから、言い返まつと信心は日に日に死ぬるが、信心なりというてもいいのである。日に日に死ぬるが信心なり。そして、新たに生まれて来る。私はこの93節の一番ありがたいところいや、どこをどう頂かなければいけないというところをここんとこだと思うのです。「万事に行き届いた信心をせよ」というところだと私は思います。ちょっと気が付かないところですね。万事に行き届いた信心をせよ。なら万事に行き届くと言う、どういうことであろう。それがなかなかですね。その人の個性、性格と申しましょうか。ぼんやりした人もあります。もうチンと言えば、カンと気のきく人もあります。してみると、金光様の信心はぼんやりしとったんじゃ、おかげは受けられんということになるですね。たとえば、気のきいとねば、チンとカンとなからなけば、かいかところに手が届くように行き届かなければ、ここで行き届くということは、そういうことじゃない。**こういうことばっかり眼目しておる人があるですね。チン**カン**行き届いた信心と思とる。行き届くとは、行き届くのだ。どこへ神様へ、自分の思いが、何時も神様へ通うておる。自分の思いが、何時も神様に交流しておるね。そう言う信心をさせて頂いているということです。ですから、性格的に気がきいてる、気がきかんでも、お互いが信心になれば、何時も神様と私は交流しておる。いわゆる行き届いた事になってくる。だから、神様が行き届いたおかげをくださる。何時も神様を交流しておる。行き届いた信心をすりゃ神様は又行き届いたおかげをくださる。言うなら、かゆかところに手が届くような信心をするから、神様がこちらのかゆかところに手の届くようなおかげをくださる。そんなら、行き届いた信心とはです。チンちゃカンこたる信心かと言うと決してそうではない。神様に何時も行き届いておる。神様に届いておる。しかも一言二言じゃあない。万事に行き届いておらにゃいけん。何処におろうが、何をしておろうが、何をしておろうが、その中に、神様と交ようておらなければ、それはねたまでも通うておらなければいけない。ねたまでも通うておる皆さんが御神夢頂くでしょ。あれはねたまでも、交ようておるから、御神夢をくださるのですよ。万事に行き届いて信心、神様に何時も交流しておる信心、そういう信心が私は出来たら、この御理解の全てのところが、始めから最後までがそうしなければそう講じなければおられなくなってくるのですよ。してみるとここんところ、たったあまり気が付かない万事に行き届いたという所があるが、ここが大事なところであることがわかるでしょう。そこで万事に行き届くためにはです。私、日々に生きるが信心なり、と言うこと。信心しておれば一年一年ありがとうなってくる、とおっしゃるがこれは自分の信心の一つのバロメーターである。自分ももう5年も信心させてもらってるが、どのようにありがとうなっておるか、ありがとうなっていないとするならば、ありがとうなっていく稽古をする。毎日おかげ頂く稽古。ありがとうなる稽古しとらん、ということに気付かせて頂いて一年一年ありがとうなっていくというところに焦点をおいた信心、それには私ども日に日に生きるが信心に生きていくと言うこと、何年前あの人があーいうておった。これだけは忘れられん。何年前のことまで怨み***に徹すると言い方をする人がある。そういう人はおかげは受けられん。あの人からああ言われた、あの人からああされた、そこでここではああ言われたことがです。かえっておかげの元になったというような所まで信心を高めていけと言われる訳なんです。
昨日、上野愛子さんが頂いた御理解の中に後から詳しいことは聞いて下さい。邪魔にはなっておるけれどもね。おかげの邪魔にはなっておらん。今邪魔をされた。あの人が私が幸せになって行くためにこんな邪魔されたと思いよるけれども邪魔をされておるけれども決して邪魔をされておらん。おかげの邪魔にはい***なっておらん。いや、もうちょっと言うと、こういうおかげを頂くために、あの人が、邪魔させなさったことになっておる。だから、邪魔をされたからというて、恨むことも悔やむこともいらんでしょうが、かえってそれをお礼を言いたい気持ちなんです。あの人が、私の悪口をこう言うた。だから、はがゆいとこう思う。なるほど、それは事実かも知れない。悪口言うたかもしれない。けれども、おかげの邪魔には一つもなっていないんだということなんです。そういう生き方、そういう頂き方がです。いわゆる私がよく使う言葉の中には「こんごうふえの心」というでしょう。絶対壊れない心、自分の心がありがたくなっていきよる。ありがたい心が**に崩れることのない。これが たとえあれが悪口こういうたと聞いただけで心が崩れてしまうじゃなくて悪口を言われたことは事実であってもおかげの邪魔になっていないことがわかるときです。自分の心と言うものは壊すこともなければ、いわゆる金剛不之の心、何時もありがたいというものを持ち続けることが出来る。それを日に日に生きるが信心なりというような信心によっていよいよそれが確実な本当なもの。いよいよ大きな豊かなものにしていくことが出来る。信心の根ざしはこれより他にないのだから。そこがだんだん出来ていくところから万事に行き届いた信心が出来るようになる。万事に行き届いた信心をさせて頂くところから神様の方が今度は万事に行き届いておかげをくださるとことが出来るようになる。氏子信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのはそう言う信心ではなかろうかと私は思う。今日の御理解は正しくお道の教師にくださった私は御理解だと思います。けれども、これをお道の教師だけが頂くのだけじゃあない。全信奉者が全取次者としての立場で頂かして頂くと今日私が聞いて頂くような事になっていくのであります。どうぞ。